弁護士中山の「私の一冊」

産業スパイって本当にいるんですよね。 (2015.6.3)

吉田修一「森は知っている」幻冬舎

 

吉田修一さんといえば,長崎出身でデビューからすでに16年を迎えています。まだ44才。作風は本来,純文学です。なんと言っても31歳にして「パークライフ」で芥川賞受賞。彼の作品で妻夫木さんと深津絵里さんで映画化された「悪人」は福岡が舞台となっていて妻夫木さんが金髪の殺人犯で、吉田さんのこれまでの作風からすればとても意外なものでした。

本日紹介の「森は知っている」は作者のさらなる新境地であり,何とスパイものなんです。ちなみに先立つ1年くらい前にこの作品の続編となる「太陽は動かない」が出版されています。分かりやすく言うと本作品の主人公は鷹野という少年なんですが、「太陽は動かない」に登場するエージェントも鷹野でして、本作品では彼がどのような生い立ちで、どうしてスパイとして養成されることになったのかについてが描かれているんです。ですから先に本作品「森は知っている」を読んでから、1年前に出た「太陽は動かない」を読めば時系列的にはすっきりするというわけです。

ところで、スパイの元締めの諜報機関といえば,007属する女王様のMI6,アメリカのCIA,ソビエトのKGB,イスラエルのモサド,お隣り韓国ではKCIAなんてのがあります。日本では小説の中で内閣情報室という名がよく出てきますが、実在はしていないようです。存在するとすれば警察庁公安部か防衛省内部にあったりするかもですね。

スパイ戦といえばこれらの組織が映画や小説の世界を駆けめぐって,西側と東側の国家や企業の利益を掛けた争いを繰り広げるというイメージがありました。ストーリーの中での出来事はすべて闇から闇へと葬り去られる事柄ですので,まさに何でもありの世界ですし,己の国の利益を守るためには,殺人すら日常であり正当化されています。しかし,それも冷戦の終結,ソビエト連邦の崩壊によって影が薄れ,スパイ小説もここ最近の時代設定だと下火になったように思われます。

本作品では,主人公が属する諜報機関は日本国内に本部があり、情報配信会社「AN通信」を名乗り,普段は時事情報を発信するマスコミのひとつに過ぎません。その実体は裏情報を商品として扱う諜報機関だったのでした。いわゆる産業スパイ,すなわち,いち早く機密情報を入手して利害関係を有する国家や企業に高値で売却し,あるいは報酬を得て一企業と組んでライバル企業の機密情報を暴露するなどなど,それが彼らスパイエージェントのお仕事です。

さて、主人公ですが、「大阪市のマンションで4歳の兄と2歳の弟が母親に置き去りにされ、母親は男と一緒に過ごしていました。置き去りにされた部屋は、厳重にドアやサッシ戸がガムテープで密閉されており、ごみが散乱し、当時、猛暑の中エアコンもなく、夜には真っ暗になる状態でもちろん飲み物も食べ物もなく、彼らは暗闇の中で手さぐりで食べ物を捜し母を探していたと推察されました。二人は発見前の数日間何も食べてないことが分かっています。母親が彼らのために置いていったのは水のボトル2本と菓子パン3個のみだったのです。発見されたとき2歳の弟は既に餓死していました。その体を4歳の兄が抱きしめて寝ていたといいます。」この4歳の男の子が主人公鷹野だったのです。彼はその後どのように成長し諜報員となっていくのか、その過程も興味深いです。こうして、鷹野は18歳になった段階で自らの判断で諜報員なるかどうかの選択を迫られます。もちろん拒むこともできることになってはいます。諜報員になれば,組織に忠誠を誓い加入するにあたり、自らの意志で胸に外科手術により小型爆弾が仕掛けられます。そして1日に一度の本部との定時連絡を途絶えれば、裏切りと看做されて起爆装置が起動して爆死する運命にありました。つまり、諜報員は24時間だけ信用されてその日を生きる。そんな1日を繰り返し、もしも35歳まで無事に職務を全うして生き延びていられたなら、そのあとは自由に生きていい。その際、一つだけ自分の欲しいものを手に入れることができる。金が欲しければ金、何なりとその後の人生を設計できる。そんな身分だったのです。

今回のミッションは水事業を巡る情報戦です。わが国では水道事業は公共事業ですから収支を度外視した利用料が設定されています。つまり、完全な赤字経営を強いられています。諸外国では民間がこれを担っていたりします。どう違うかというと簡単にいえば、もしこれが民間経営となると黒字経営になるようにしますから、エンドユーザーである我々が負担する水道料金が格段高くなるのです。さあ、この水事業どうお金ネタになるのか、読み始めると止まらないノンストップ・アクションです,十分かつ丹念に楽しんでください。

なお,本作品は結末で,組織も主たる登場人物も丸ごと残っていますので,シリーズ3冊目が出ることは必至です(了)。

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