原爆も原発も技術は同じなんですね (2013.10.29)
「日本の原爆 その開発と挫折の道程」保坂正康 新潮社
第2次大戦中,日本でも極秘に原爆の開発がなされていたことをご存じでしたか?
1938年12月,ドイツの原子物理学者オットー・ハーンとフリッツ・ストラスマンが一大発見をしました。彼らは実験によって,ウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂を起こし,巨大なエネルギーが生まれることを発見したのでした。
この自然法則はすぐに軍事利用されることになります。アメリカではマンハッタン計画により,かのアインシュタインやオッペンハイマーら原子物理学者を中心として秘密裡に開発がすすめらます。砂漠の町ニューメキシコ州のロス・アラモスに二つの巨大な実験場と50にも及ぶ中小工場を備え,ここに最大12万5000人もの従業員を投入して,砂漠の町で実験を重ね満を持して原爆を完成させたのでした。核分裂エネルギーが発見されてわずか6年余りのことです。
1945年8月6日,北マリアナ諸島テニアン島を飛び立ったアメリカ軍爆撃機「エノラゲイ」は,同日午1前8時15分30秒,人類史上初めて人間に対して原爆を投下します。この広島に投下された原爆はただの一発で,火薬2万トン分の威力,10トン爆弾をまとめて2000個投下したのと同じ威力があったといわれています。まさに,マッチ箱ひとつのウランで大都市を吹き飛ばす威力があるとされる所以です。
1939年ににはじまった第2次世界大戦,さまざまな兵器が実戦で使用されていますが,ドイツ,アメリカ,ソ連では競って原爆開発に着手しています。イギリスは同盟国アメリカの支援として,敵対するドイツの原爆開発を妨害するために関連工場を爆破したり,ドイツの物理原子学者を暗殺しようとすらしています。
そんな中,日本でも軍部では海軍ニ号研究と陸軍F号研究としてそれぞれ別々に開発に着手されました。海軍のスタッフは後にノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹属する京都帝大荒勝研究室,陸軍は東京の理化学研究所の仁科研究室でした。
さて,原爆はどうやって製造されるかですが,簡単に説明しますと,まずウラン鉱石を遠心分離器にかけ,あるいは熱を加えたりして,酸化ウランやガス状の6フッ化ウランに変えます。ここからウラン235を抽出するのですが,この過程には膨大な工場,作業員,設備が必要となります。こうして抽出されたウラン235を濃縮化します。この過程は放射能に注意を払うなど危険極まりないのですが,日本の軍部は全く理解しておらず,研究者の理解も深いものとは言えませんでした。当時,そもそも日本では原料となるウラン鉱石そのものが見つかっていませんでした。それでウラン鉱石確保のため,同盟国ドイツから鉱石1トンをUボートで輸送しようとしますが,その途上アメリカの潜水艦により撃沈されたというエピソードすらあります。ですから,日本の原爆は実は,敗戦に至るまでウラン235を抽出するどころか,具体的な実験にも至っておらず,その実体は基礎研究の域を出ていなかったのです。しかし,日本の科学者たちは,原爆を製造することは技術的に可能として,研究を継続することを名目として軍部から莫大な予算を引き出していたのでした。ちなみに軍部は国内で必死にウラン探しをしますが,皮肉なことに福島県石川町にウランがあるとされ,終戦の玉音放送のそのときまで学徒によるウラン採掘が継続されていたのでした。
ところで,広島に続き長崎への原爆投下まで,75時間ありました。この間,長崎への原爆投下は避けられたのではないか,本書はこの点についても触れています。
敗戦により日本の原爆に関するすべての研究は中止されます。その後,巨大なエネルギーを生む原子力は発電という平和利用へと変貌を遂げていきます。そしてスリーマイル,チェルノブイリ,福島原発事故の発生。果たして人類は原子力というエネルギーを安全に管理できるのでしょうか。原発立国といわれる日本の原子力の歴史を問う「極秘研究」の全貌が明らかになります。
著者はノンフィクション作家。1939年生,同志社大学文学部卒業。電通,朝日ソノラマ社を経て1972年,三島由紀夫事件を扱ったノンフィクション「死なう団事件」で作家デビュー,昭和史を語り継ぎ会主宰(了)
