ズバリ,山岳冒険小説です (2010.10.04)
樋口明雄 「狼は瞑(ねむ)らない」 ハルキ文庫
もう10月,あれほど猛威を振るった酷暑も静まり,過ごしやすい気候になってきました。ドカ雨があったりして,異常気象らしきものを感じさせましたが,幸いにも福岡地方に大きな台風被害はありませんでした。今回は,山に絡めて台風と天気の話しを少し。
毎年,日本各地で被害を引き起こす台風は,端的にいえば積乱雲によって発生します。遙か遠く赤道に近い南太平洋の海水は,連日の夏の強い太陽光によって,30度以上の温水と化します。そのため,熱気による絶え間ない上昇気流が発生し,海水を一部水蒸気に変え空まで運びます。水蒸気は上昇気流に乗って1万メートル近いところまで行くと,こんどは急激に冷却され微少な水滴となります。この水蒸気から液体に変化する際に凝結熱が発生して,気流の中心部の気温が一時的に上がり上昇気流はさらに強まります。すると,気圧が下がり,さらに多量の水分を海面から引き上げていきます。こうして空気中にとどまった無数の水滴の集団は,そこら中の海域で積乱雲となって,底部では激しい雨を降らせつつ,なおも高空へと発達し,美しくも立派な姿へ成長するのです。これらの積乱雲は,突如上空にわき上がったと思えば,にわか雨を降らせいつの間にか消え去り,また,別の場所で出現,消滅を繰り返します。そのうちに積乱雲が数百と集まりその集合体となると,太平洋高気圧に押し下げられ,帯状の雲の固まりとなって東西に長く伸びて,熱帯低気圧(台風)の誕生となるわけです。こうして凝結熱をエネルギー源として誕生した台風は,地球の自転と偏東風の影響によって,反時計回りで回転しながら,ゆっくりと北東に進行します。なお,回転は渦となり渦の中心には空洞が出来ます。中心部に向かって巻き込まれる固まりは,芯に近づけば近づくほど盛んに雨を降らせ風速が強くなります。一方,遠心力の影響で一定以上の中心には近づけずに形成された空洞は,雲も風もないぽっかりした空間となっています。これが台風の目といわれるものです。
ところで,山の天候は変わりやすいといいます。これは,山の森林に含まれている水分が原因です。つまり,森の木々は土から水分を吸ってこれを空気中に出すため(蒸散),これが上昇気流に乗って雲になりやすくなるのです。雲が出来れば,天候が変わるということです。よく森の中に入ると,ひんやり感じますよね,これは木々が出す水分のせいなのです。また,アマゾンなどのジャングルにスコールが降るのもこの原理によるものです。
ということで,登山口では,目の覚めるような雲一つない快晴の朝でも,午後には暗雲に覆われるということはよくあります。例えば,飛行機雲つまり,ジェット機の飛行とともに長い雲が伸びるのを目にすれば,それから10数時間後には天候が悪化する兆候です。ことに1500メートルを超える山頂ともなれば,ガス(雲)の動きは速くめまぐるしいものがあります。さらに怖いのは雷です。どこに落雷するか,予測が付かないからです。落雷する可能性の高い人工構造物がたくさんある平地と違って,山では人間が落雷する可能性は高くなります。だからといって,腕時計,メガネやネックレスなど,身につけている金属類を外しても意味がありません。例えば,アンテナのように雨傘を高く掲げるとか,頭よりも高いところにとがった金属を掲げているのならともかく,人間の体そのものが導電帯なのですから,山では金属を身につけようと身につけまいと触雷の可能性は同じなのです。直接人間に落ちなくても,近くに落雷すれば,雷は地面を走ってきて感電したり,衝撃で吹き飛ばされてしまうことすらあるのです。それではどうすればいいのかということですが,一番いいのは,そういう天候若しくは予報のなかでの登山を避ける。やむを得ず避けられなかったときは,避雷針のある避難小屋か深い洞穴に逃げ込むしかなさそうです。(以上の気象に関する記述は,今回の作品から一部抜粋しています。)
好きで山に来て,十分な備えもなく勝手に遭難する人がたくさんいます。登山届けすら出さなかったり。これらの人たちも含め,山の遭難者を救助するために組織されたお巡りさんがいます。日本アルプスを県域に持つ長野,富山,岐阜各県警に所属する山岳警備隊です。今回紹介する作品は山岳警備隊がベースで,彼らの興味深い救助活動を垣間見ることが出来ます。ズバリ山岳冒険小説です。
長野県と富山県の県境に近い,山麓の小さな過疎地,貞観寺村出身のタカシ。彼の父は数少ない貞観寺の末裔として「仲語」と呼ばれる山岳ガイドを生業としていた。タカシが幼少の頃,父は,遭難者の救助活動中に不慮の死をとげる。後を追うようにあっけなく逝く母,タカシは親戚中をたらい回しにされて育つことになる。苦学の末,高じて彼が選んだ職業とは警察官だった。彼は志願して警視庁警備部警備課SPとして大臣級の要人の警護を担当する。そこでタカシはSPとして,警察と政治の権力が複雑に入り組んだ世界の汚点を嫌というほど目の当たりにする。タカシは,それら汚点に対しては,目を閉じて必死に忠実に職務だけを全うしようとしていた。ところが,次期首相候補者を警護中,テロリストの凶弾を受けて生死の境をさまよいSPを辞することに。快復したタカシは故郷に帰り,警察官を辞そうと決意する。しかし,周辺の説得により故郷の警察署の地域課に勤務,山岳警備隊員を兼務し,山とともに暮らすことになる。それから5年,何事もなく時は過ぎ去ったかにみえたが・・・。タカシのSPとしての過去には秘められた事実があったのだった。その秘密を抹殺するために暗躍する巨悪な権力。タカシは不正をただすため権力に立ち向かおうとするが・・・。
フィールドはすべて山岳です。山の雄大な自然そのもの,登山技術の描写のリアルさは,作者自身それなりの経験に裏付けられたものだと窺われます。上級の娯楽作品らしく,文脈にはタカシの少年時代から仕掛けがあります。それがラストに向かい浮き彫りにされます。ビジュアルでいえば,映画(洋画)で観た「バーティカル・リミット」のような娯楽作品です。
作者は1960年山口県生まれ,明治学院大法学部卒,雑誌記者を経て87年「ルパン3世/戦場はフリーウェイ」で作家デビュー。SF,冒険小説からライトノベルまでてがける。「約束の地」で日本冒険小説協会大賞,大藪春彦賞受賞。彼のホームページによれば,現在,南アルプスの麓で釣りと野良仕事の傍ら執筆活動にいそしんでいるそうです。著者の作品は大体読みましたが,本作品のほかは,「約束の地」「光の山脈」「墓標の森」「クライム」などの冒険小説が絶品だと思います(了)。
