政治に関心ありますか? (2010.8.02)
津本 陽 「異形の将軍 田中角栄の生涯」 幻冬舎
スミマセン,今回はちとおもしろくありません。
司法試験合格者は,最高裁判所司法研修所において所定の研修を経て,2回目の国家試験(卒業試験)に合格してはじめて,裁判官,検察官,弁護士等の法律実務家の道に進むことができます。
司法研修所は,10年以上前に埼玉県和光市に寄宿舎付で新築移転されました。これは近年の司法改革による試験合格者の増員,つまり,当時,合格者約500名から約1000名に倍増したことにより,研修のための物的設備(教室・研修室・寮など)を拡大する必要があったからです。その後も賛否はあったものの,合格者は増員され,2009年の合格者数は約2150名になっています(ちなみに私が合格した85年は約490名)。併せて,財政的理由からそれまで2年間行われていた修習期間は,現在では1年間に短縮されました。一方,司法修習生には戦後60年来,国家公務員として,相当な給与が支給されています。国から給与を受けながら所定の研修を受けていたのです。従って,合格者大幅増員の一方で,修習期間は短縮されたものの,それでも当然,国費支出の相当な増加は免れませんでした。そこで,国は財政難解消の一方策として,修習生の給与制を今年の合格者から廃止する法改正をしました。その代わり,別途,貸与制を設けて,希望する修習生には生活資金を貸し付けるというのです。
これに先立つ司法試験改革として,法科大学院が設置されており,これを卒業したものには,卒業後5年以内に3回の司法試験受験資格を与えるという仕組みになっています。従って,法律家になるためには,まず大学を卒業した後,さらに2年または3年間かけて法科大学院を卒業し,はじめて司法試験の受験資格が出来ることになります。これは,法科大学院設置前と比較すると,大学卒業後,修習期間1年を加えて,最短でも3年間は生活する資力が必要となったことを意味します。一面では,お金がないものは法律家にはなれないということにもつながり,憂慮すべき事態となっています。そこで,現在,全国の弁護士会を挙げて,反対運動がされています。如何になりますやら。
ちなみに,法曹人口は飛躍的に増加していますが,改革後も裁判官及び検察官の任官者数は,国家予算の制約から,年に各130名程度であり,改革前と比較して大幅な増加はありません。つまり,司法試験合格者の増加は,弁護士人口の増加を企図して行われたものだったのです。例えば,司法修習を終了して,年に2200名の実務家が誕生しても,単純計算では任官者以外の残1940名が弁護士になっているのです。このことから,現在,新たに弁護士の質の低下や就職難等が問題となっているのも事実です。
とまれ,それ以前の司法研修所は,私が修習中の86年当時を含め,東京上野の湯島天神前の道路を挟んで蓮向かいの広大な国有地内にありました。この国有地内には研修所の建物に隣接して国の重要文化財指定の旧岩崎邸(三菱財閥創始者)があり,日本庭園,サッカー場も備えていました。そう,この広大な国有地は,もともと岩崎邸の敷地だったのを,戦後,税の物納により国有化されたものだったのです。旧岩崎邸は,明治初年築の当時では,近代的かつ画期的な西洋建築物でした。ビリヤード場付の別棟は,主棟と地下道で接続されており,緊急時には避難用とされていたとのことです。戦後は,進駐軍に接収されGHQの施設として使用されたこともありました。新人修習生には恒例の見学ツアーが組まれ,入所時のクラス写真の背景にもされました。
ところで,86年当時の修習生の流行といえば,テニスがハイカラで,裁判所共済関連のテニスコートが目白にありました。安い使用料で使えるということで,同期生で何度か目白へ出かけました。JR目白駅から徒歩で行くのですが,その道すがら,テニスコートを含む運動公園に隣接して,いわゆる目白御殿があるのです。約8500㎡の敷地の広さは圧巻的です。私はノンポリを自称しており,政治では無関心層に属します。だから,その時々の情勢で投票します。それでも,「これが,かの田中角栄邸か!東京のこんな一等地になんてこった!」と,想いを馳せたことを今でも記憶しています。ちなみに,全日空の航空機選定を巡る贈収賄疑惑となったをロッキード事件は,当時,東京高裁にて控訴審が係属中でした。遡る83年,東京地裁は田中氏に対し,受託収賄罪・外為等法違反で懲役4年,追徴金5億円の実刑判決を下していました。控訴審でもこれは維持され,最高裁に上告中の93年12月,田中氏は刑事被告人のまま75歳で死去され,被告人死亡により,事件は上告棄却となり終了しました。
さて,政治資金規正法違反で,検察審査会において起訴相当との結論を受け,世間の非難を浴びている民主党小沢一郎氏。これから刑事被告人となり刑事裁判を受けることになります。彼が「おやじ」と呼んで慕っていた田中角栄氏。小沢氏は最盛期140人を誇る田中派若手議員連に属し,7年間169回にも及ぶ田中氏の東京地裁での刑事裁判を欠かさず傍聴したといいます。田中氏失脚後,竹下派を経て自民党離党。新進党,自由党の代表を歴任したのち,民主党に合流してここでも代表まで務めます。民主党で念願の政権獲得に成功したのです。しかし,参議院議員選での惨敗。政治活動は再開されてはいるものの,今回の政治資金問題で失脚しているといってよいでしょう。田中氏と似ている一面もないわけではない・・・,果たしていかがなものでしょうか。
田中氏の主な略歴は,次のとおりです。
1918年新潟県西山町の農家に生まれる。幼いころから吃音があり,浪花節の練習でこれを矯正した。34年二田小学校高等科を首席卒業後,新潟県の土木派遣所に勤務。働きながら36年に東京神田の中央工学校土木課を卒業して建築技師(後に1級建築士)となる。43年田中土建工業を設立,その後終戦を迎えるも同社は戦災を免れ,巨万の富をなす。46年の衆議院選総選挙に初出馬,落選。47年衆議院選,新潟3区から民主党公認で初当選。この後,76年にロッキード事件が発覚してから刑事被告人となり,有罪判決が下った後も,4回のトップ当選を果たし,90年の政界引退まで当選を続ける。55年自由民主党の結党に参加(いわゆる55年体制)。57年岸内閣で郵政大臣,63年池田内閣で大蔵大臣各歴任。65年自民党幹事長,71年佐藤内閣で通産大臣各歴任。72年佐藤派から田中派独立,日本列島改造論発表,内閣総理大臣就任,日中国交正常化。74年内閣総辞職。首相在職通算は886日間。
本作品は田中氏の生涯を綴るドキュメント政治小説とでもいえるでしょうか。田中氏に対する評価は分かれますが,戦後日本社会における多大な功績を否定することは出来ません。事実,朝日新聞の「この1000年の日本の政治リーダー」の人気投票で,坂本龍馬,徳川家康,織田信長に次いで第4位の得票を獲得しています。本作品を読んで,ダークな部分はさておき私も彼のことを偉人だと確信しました。今回は,興味ある方は読んで頂きたいかと・・・。
なお,作者津本陽は1929年和歌山生まれ。東北大法科卒,「深重の海」で78年直木賞,「夢のまた夢」で95年吉川英治文学賞各受賞。多数詳細な資料を基にした歴史小説を得意としており,戦国,幕末の人物伝に著作が多い。本作品の参考資料も40にも及ぶ書物を数える(了)。
